【ゲーセン論】サボるということの喪失
90年代には各地どころか、各駅ごとに大小のゲームセンターが存在していました。しかしながら、今はかつてのゲームセンターと呼ばれる形態のお店はほとんどなく、いわゆるアミューズメントパークとしてのカップルや家族向けのプライズゲームを中心とした施設が残っているだけとなっています。メダルゲームを中心として残っているゲームセンターもまだあると思いますが。アーケードゲームを中心としたゲームセンターは本当に数が少なくなってしまいました。
ゲーセン衰退論で語られる初狩り問題は本当か?
アーケードゲームにおいてゲーセンが衰退していった背景に中級者による初心者狩りによって衰退していったと論じるシーンが非常に多いと思いますが、私はこの件に関しては半分ぐらいは合っているが、残りの半分が本質をついていないと思っています。
ゲーセンを支えていたお客さんはだれか?
ゲームセンターというと、そこで熱心にアーケードゲームの対戦に明け暮れていた人たちがいる、都内ではそうかもしれません。しかしながら郊外のゲームセンターとなると、言ってもそこまで一生懸命アーケードゲームをやっている人というのはそこまでいないんですね。実のところ毎日のように来て、毎日のようにお金を入れていっているのはだれか、それは仕事をサボっているサラリーマンや、学校をサボっている学生、そして人生をサボらざるを得ない人達です。
前回のニッチ格闘ゲームの記事でも書いたのですが、ゲームセンターの90年代から00年代にかけての位置づけは、人生の逃げ場所として存在していたという風に私は考えています。ゲームがうまくなって勝てるようになりたい!という意思でゲームセンターに通っていた人は少数派ではなかったでしょうか。
サボるということのできない時代
現代において仕事中にサボってゲームセンターに数時間滞在するというのが可能でしょうか?かなり難しいと思います。学生にとっても学校や部活をサボって夜遅く帰って「うるせえババア!」と言える親子の関係構築がなされている人がどれぐらいいるでしょうか?
現実的な問題として「お金がない」という問題が大きく横たわっていると思います。学生としてもサボってゲーセンに行っている暇があったら、きっとバイトをするでしょうし、サラリーマン一人当たりが抱える仕事の量は膨大でサボる暇などないでしょう。
ゲームセンターにとっては暇な時間、お昼の時間のお金の入りはそうやって、サボる人たちで成り立っていたように思います(私が学生の頃は昼間っから学生だらけだった、その後ろにスーツ姿の人もいた)
初狩り問題の本質
そこの本質というのはもともとはお互いサボる名目でゲーセンにフラッと立ち寄り、ゲームを始めた、先に始めた人は当然そこそこうまくなります。そこへやはり人生になやんでふらっと逃げ場所として選択したゲームセンターで一人で遊んでいるところに乱入されて、負けたらどう思うでしょうか?現実の人生が勝ち負けであり、そんなものに嫌気をさしてゲームセンターに来たら、はっきりと負けを突き付けられるというのはとても辛いことではないでしょうか?もちろんそこから誰もやっていないゲームや一人用のゲームに退避し活路を見出すことも可能でしたが、だんだんとゲームセンターに設置されるゲームの種類も減っていった時代なので、逃げ場所を別に求めるしかなくなってしまったのではないでしょうか?
ゲームセンター喪失の社会問題
ところで私が一番気になっているのは「人生をサボらざるを得ない」人たちの存在です。そこには様々な理由があると思います、社会にうまく溶け込めない、仕事といってもできることが少ない、家に居場所がない・・・そういった人たちが数百円で1日滞在をする。それこそコラムスやテトリス、野球のゲーム、上海、こういうゲームを対戦が盛り上がっている後ろで黙々とやっている人たちが絶対にゲームセンターにはいたはずです。また、ゲームセンターには来ているけど、特に何をすることもなくうろうろだけしている人。もちろんゲームセンターの利益にはなっていないのですが、その人にとっての居場所でもあったはずのゲームセンターはなくなってしまいました。
私個人的にはゲームセンター併設型の福祉事業所だったりグループホームを作っていくというのが今後の一つの選択肢としてあるんじゃないかなぁと、まずはゲームセンターに来るというところから社会との関りを持っていく。
笑う人たちもいるかもしれませんが、ゲーセンがあったことで人とのかかわりを持てて前に進めた人たちは沢山いるんじゃないでしょうか?
学生の逃げ場については「ゲーセンではなくなってしまった」という側面があると思いますが、それに関してはまた別のお話です。
異論反論あると思いますが、ご容赦ください。
ニッチ格闘ゲームの遊び方のここ10年の変化
ニッチ格ゲーとかつては言われていたゲームたち、例えばワールドヒーローズ2であったり、ファイターズヒストリーダイナマイトであったり、もちろんサムライスピリッツ 斬紅郎無双剣も含まれます。
自分が割といろいろなニッチ格ゲーと言われるゲームをやって、ちょこちょこ色々なコミュニティに参加しているため、コミュニティのあり方というのが変化してきていると感じていて、他のゲーマーコミュニティでもプレイヤーの変化やプレイに対する思いというのが変化していると感じている人もいるのではないかと思い、今回の記事を書きました。
90年代を再発見していく時代
2010年代、某ゲーセンでは、本来90年代にゲーセンで遊びたかったが遊べなかったという体験をしている人たちが、ゲームセンターという中でやはり90年代に遊ばれなかったゲームを発掘して、再発見していく。言ってみれば最新作ゲームとして90年代のゲームを遊ぶということが、ゲーセンの一つの戦略として、そして一部のプレイヤーにとってもムーブメントとして確かに存在していたと感じています。
2010年段階の話ですが。サムライスピリッツ一つとっても、サムライスピリッツのゲーマーというくくりはあっても、あまりにゲームの数が多く、それぞれのゲームごとにコミュニティが確立していたかどうかについては、大変判断が難しいです。闘劇種目になったゲームに関してだけは突出してプレイヤーが多かったので、コミュニティとしてのふるまいはあったのではないでしょうか。
当時の社会状況とゲームの遊ばれ方の関係
当時の社会状況というのは、いまでもそうかもしれませんが「勝ち組、負け組」と言われるような競争社会の苦しさ、自己責任を突き付けられる苦しさ、就職氷河期世代という理不尽に対して、残るか降りるかを選択していくという時代でもあったと思います。
その中でニッチ格ゲーというのは大変理不尽なゲームでして龍虎2にしても龍虎外伝にしても、もちろん斬サムにしてもなのですが、一生懸命練習したところでハメ、永久、バグ技なんでもありの世界の中でもはや努力したところで努力の意味を考え直すぐらい理不尽に自分が負けてしまうことがざらにあります「ミッキーの腹パン」が起き上がりに重なりつづければやられてしまうので。ゲームに負ける責任はどう考えてもゲームが悪いって言えてしまうわけです。
社会の当たり前が自己責任を突き付けてくるなかで「いやさすがにこの負けは自分の責任じゃないでしょう・・・このゲームおかしすぎるよ・・・」とある種、責任から解放される気楽さと、やられるときの絵面の酷さから、もはや笑うしかない、というかもう見てて面白すぎる。というのかニッチ格ゲーの面白さでもありました。
逃げ場としてのゲーセン、逃げ場としてのゲーム
対照的にスパ2X、3rdを代表とするカプコンの格闘ゲームやVFなどはより競技性が高まり、いまでいうE-sportsという側面をかなり帯びていく形になります。
ゲームがそうなっていくと、仕事でも自己責任を突き付けられ、ゲームでも自己責任が突き付けられる、またゲームのうまさや下手さ、自分の能力などと向き合う必要が出てくるため、そういったことの苦しさへの受容性が高い人しか生き残れない場所でもあるんですね。
そういった中でニッチ格ゲーというのは、そういう苦しさから解放されてく側面が強いため、ある種の逃げ場所として一部の人にとっては存在していたと感じています。少なくとも自分にとってもそういう場所だったのかもしれません。
負の側面としては、そういうゲームに長けすぎている人であったり、長けていても良いが、ゲーム愛の無さや運営に関わらずにただ勝ちだけを拾いたいという人がなんとなくヒール役(今から考えるとヴィランであったと考えた方が面白いかも)を負わされてしまうこともあったように思います。
時間変化ととも起こったこと
きっかけとしては、上に書いたようなことがスタート地点としてゲームを始めた人が、やはり長く続けていくとゲームに熟練していく形になります。ワーヒー2や斬サムが研究されてくることになってE-sportsとしての側面を帯びてくる形になります。画面上は。
またコロナ禍において、ネット対戦が盛んになり、コロナ明けには、ゲーセンに参入していなかった世代や人というのがゲーセンのコミュニティに参入する形になってきます。ここにどうしてもズレというのが生じている気がするのですね。
格ゲーのコミュニティというのが全て同質性を持っていると見てしまう(すべてがスト6や3rdのコミュニティのようなのか?)、それをやってしまうと、それぞれのコミュニティが抱えてきた課題や苦しさや受容性を理解しない人というのがどうしても出てきてしまう。極論をいってしまうと先ほど言ったヴィランだらけになってしまう。
ところがこれも時代変化ですが、ニッチ格ゲーのプレイヤーもまた自分のやっているゲームをE-sports的なものとしてどんどん受容していきながらコミュニティの拡大をしていくため、逆に逃げ場所や居場所として思っていった人にとっては違和感みたいなものを感じる場合もあるかもしれません。
今ちょうどそういった変化の間にあるのかなというのが私の印象です。
私個人的にはゲームそのものをE-sports的に楽しむこと自体は全く否定していません。むしろ私自身も積極的にそのように遊んでいるものもあります。しかしながらゲームを楽しんでいる人のゲームに対する想いというのは非常に多様であるということは理解し共感はした方が良いと思うのですね(共感をして同意しないということはできるので)
それがキャラクター愛だったとしても、「キャラを愛しているが故に勝ちたい」なのか「キャラを愛しているのでとにかく色々動かしたい」ではやはり違いますし。
ですので、コミュニティに参加する場合、きちんとそこのコミュニティに属している人というのがどういう思いでコミュニティに参加し、時には運営してくれているのかということを積極的に理解をしていく努力というのは必要だと思います。
E-sportsになること(競技性を帯びること)だけが正解ではない
コミュニティの拡大という観点から言えば、時代時代の流れを読むというのが重要で、たとえばコミケで1000部売りたいと思えば、流行や時代の流れを読んだ作品作りというのが重要です。なのでE-sports化の流れに乗っていくということが、今この場ではコミュニティの拡大にとっては正解かもしれませんが、かなり長い目で見たときにムーブメントというのはやはりすぐ終わってしまう、別の流れがやってくるという側面があります。そういった場合には、流れに乗らずに淡々と、自分が好きなものを好きな形で発信し続けるという事の方が重要になります。いまだに鎧伝サムライトルーパーの同人誌が作られていることと同じです。
プレイヤーがとても多いモンハンとかであれば、各サークルに応じて活動方針というのを変えることができますし、活動方針に応じて人を集めることができます。しかしながらそもそもプレイヤーの少ないニッチ格ゲーのコミュニティの場合には、きちんとコミュニケーションを通して、お互いに相談をしていく必要というのはありますし、そもそもコミュニケーションができる土台として日頃の行いであったり、信用と信頼感創出というのがとても大切になります。
人に話しかけるということ一つとっても、基本ベースの信頼感というのが作られてからであるというのは知っておいても良いのかもしれません。
異論反論あると思いますが、一つの意見としてご容赦ください。
かみへのはんぎゃく
人類史を辿っていくと。人類は土地を求めて争い、負けたものが逃げて人間の領土を拡大し、そして農耕を始めた、それを追い騎馬の民族が農耕民を支配し国を作り、一部は逃げ、一部は支配された、そしてまた・・・。基本的には支配とそこから逃れるものによる拡張の連続によって広がっていて(拡張された勢力が拡大し支配し返すこともある)、それは今もなお領土とは別のもの、それは資本や情報や資源、人、それぞれのものについて支配と拡張を続けている。
僕にはまるでこれが海に飛び込むレミングの群れのように見えて(実際にレミングは集団自殺したりしないが)しかたなかった、まるで人類は自ら進んで地球の滅亡と人類を争いの方向へと導いてしまっているのではないか?とずっと考えていた。
しかし、支配と拡張の拡張の側から考えてみた、つまりこの地球の外に出るという事だ。そうするとまるで見方は変わってくる。まるで人類は「地球の外に出ることを目的」にしていたかのように振舞っているように見える。まるで初めから人類が星々を転々と移動しながら確実にその遺伝子を残すようにデザインされているかのように。
とはいえ宇宙に行くのは容易な話では無い、今の価値観からする平和、つまり良く管理された社会から脱出するときにきっと初めて人類は宇宙に住処を変えるのかもしれない。一見する平和とは、自由とは対称的なものであり自由の本質は混沌にあるからだ。
しかしへそまがりな僕はそれがもし神(次元の高そうな)によってデザインされたものであるならば徹底して抗いたくなる、人類は今こそ進化をやめて地球とともに終焉を迎えるべきだと思う。支配と拡張、何かを手に入れ続けることが人間の証明であるならば、まさに今人間は人間を止めるときに時に差し掛かっているのだ、それこそが神からの支配から逃れる唯一の方法なのだから。
k西さんのジェダ日記 2019/11/17新宿西セガフリプ
カンカンカン k西さんは 墓を掘る 犬とカッチの墓を掘る
「いつかここを犬とカッチのミルフィーユにしてやるからな・・・」
そう言い残すと、k西さんは藤沢の森へと消えた・・・
※今日の時点での僕個人の感想なので間違いがいっぱいあります!!!!
- 全般的に
ネロ=ファティカの使い方があんまり分かっていない。特に画面中央。めくり後立たれてたり、イレッパされているときに択としては見せていかないといけない気がする。
D小Kが使えていない。イレッパされてるときに出している。もしくは暴れられている時。そもそもガロンとかカッチとか不利キャラ相手に積極的に振って良い技なのだろうか?でも振れる状況を作らないと勝てない気がする。そのためのセーガ?
セーガを撒く、前Dは相手の動きをみないとダメ。相手が自分をどう見てるか見る。1度対応されたら切り替える。
滑空の使い方がいまだにわからない!!!わからないどころかどこで当たっているのかすらわかってないかも!
- キャラ対
犬 垂直にプレッシャーかけるために前歩きするけど、飛び落とすためにさがる。orセーガで落とす、安易な後ろ飛びセーガダメ、歩かれて死ぬ。犬は中段通されたくない、ずらせ。下段択通したらファティカが通る。投げはDFで拒否れ。カッチもそうだけど小P当てと大きい技のずらしの択が地味につらいけどアバガするしかないのか、でもそれをやってるときは意外と即投げには来ないのでガンガードかも。確実にできるときにやる。単純に端がヤバい、端に行くな、端に行くんじゃない、俺は言ったぞ。
カッチ 何をどこで落とせるのかもうちょいやらないと分からん。下中K重要置いとけ。立弱P置きは重要なんだけど本当ピンポイントだから当て感学ばないとダメ当たんない。カッチ的にはセーガ邪魔なんですかね?動き辛そう。画面端の固めのパターンが動画見てる感じ人によって違う気がするけど、出し切ってる人にはきちんとガードしてガーキャンできるといいっすね、補正切りタイプは飛ぶ、食われたらお察し。相手のダッシュの上を滑空して中Kの先端当てる感じで飛んでなんもなければセーガか大P。
蜂 セーガなげる⇒引っかかる⇒起き攻め×n CRを下中Kで落とす。対空見られると落とせない位置で飛んでくる。ホバーは滑空⇒大P⇒下中K。イレッパしたい蜂なのかガーキャンしたい蜂なのかAGしたい蜂なのかでファティカなのかガーキャンつぶしなのか、ずらしなのか方針を決める。
デミトリ ダッシュにファティカ。対空ファティカ。もうこの組み合わせはデモンの打ちどころ見るしかない。お仕置きは立中K、空中カオスはロッソでとれるようにしたい。ガーキャンをどこで出すのか?リバサは出るのか?それによって中段埋めるか埋めないか決める。1本中に考える。
ビシャモン 待たれると結構めんどくさい。居合にあたってさようなら。まとわりつかれても中段が結構大変なので、昇り中P当たる距離でなんとかしたい。この組み合わせ正直わかんない。基本的にダッシュキャラはジェダをくぐるが正解だと思うのでじゃあくぐられないようにするにはどうするかだと思う。
モリガン 波動は垂直・・・・と見せかけてのだと思う。上だけしっかり見る。バーチカルは滑空で逃げるか垂直小K。モリガンの大足の外からなんかできないかなーって考えてる。でも基本セーガ置いてからだね。
アナカリ あんまできなかった・・・アナカリの下大P対空の先端をJ大Kでつぶせるネタをやりたかった・・・。あんま止まってたらいけない組み合わせな気がする。こっちも空中にいろ。
ザベル 低空を立小Pで落とすの意識したんだけどやっぱ先出でおいておく感じじゃないとみてからは無理。ザベルに対して結構滑空が当たるイメージなんだけど、いつどんなシチュで当たっているのか説明できない。あと端いったら基本DF逃げでいいかも。
猫 気づいたらリネ神と一戦もやってなかった。だめぽ。
総括
思った通りに手が動きません!特に長時間やるともう無理です。
だんだん動きがワンパターンになっていくのが自分でもわかっていくのが辛いっすね。
とはいえそれでもなんとか頭使って動かしてる感じするので楽しいです。
はははははははは。
2012年6月
2012年6月。
僕はもう2日も眠れていなくて、頭が大分混乱していた、机には退職願と家族へのお別れを書いてその日は出勤した、形だけ。
JR藤沢駅のホームの最後尾に佇んで、ただやってくる列車を待つだけだった。なぜ最後尾か?最後尾なら速度が一番速いからだ、そんなことだけ合理的なのを今では自嘲気味に思い出す。藤沢駅は非常に開けていて、次にやってくる列車が遠くに見える、そう次にやってくるあの列車、あの列車がやってくれば楽になれる。そう思っていた。
ふと振り返るとなぜか「沼津行き」の列車が止まっている。「沼津行き」?どうしてそんなに遠くまで?(今思えば沼津行きなど普通に走っている列車だ。)多分単純に「死」から逃げた、多分それだけのことなんだけど、ただその時は遠くに行ける、ただただ遠くに行きたかった、どこまでも遠くに、行けるところまで。
だらしない・・・僕は死ぬこともできずに、逃げるだけ。一番格好悪い。だから僕はとにかく遠くへいかなくちゃいけなかった、遠くへ行って消える、その時考えることができたのはそれだけだった。
今思うと人間、習慣は消えない、好奇心は消えない、行ったところが無いところに行けば降りたくなる、きっと少し落ち着いてきたのか、静岡が長すぎたのかもしれない、清水でタバコを吸って、また電車に乗った。中京の電車は面白い、関東の電車とはいろいろ仕組みが違う、そんなことも考えていた。
名古屋まで各駅停車で行ったのはある意味正解だった、僕を落ち着かせるだけの時間は十分にあった、途中で酒を飲まなかったことも正解だったかもしれない。運が良かった。
生きるということは、ある意味で、だらしないこと、カッコ悪いこと、逃げること、降りることかもしれない、特に「高潔に」生きることを選択し続けた人間にとってはこのような生き方はまるで死んでいるように見えるかもしれない。だとしたら、「死んだように生きる」というのもまた、生きる一つの選択肢じゃないだろうか。
だってそうじゃなかったら、僕のこの7年間は無かったんだから。
所有の哲学
他者を所有するとは
所有する、支配する、コントロールする、殺す、勝利する、マウントを取る、教える、愛する、管理する・・・。自分の空間に他者を入れてしまうこと。
他者に所有されるとは
所有される、支配される、コントロールされる、殺される、敗北する、マウントを取られる、教わる、愛される、管理される・・・。他者の空間に自分が入れられること。
社会とは所有ゲームである。
教育、結婚、恋愛、経済、戦争、差別、医療、すべての社会システムは所有ゲームであり、所有する側と所有される側に分かれる。資本家は所有する側であり労働者は所有される側、教師は所有する側であり生徒は所有される側、家父長制における結婚において男性は所有する側であり女性は所有される側、医者は所有する側であり患者は所有される側。この所有権を争うために競争が起き、この立場が逆転するときに闘争が起きるし、所有する側は必死にその所有権を守ろうとする。
だから受験は競争であるし、恋愛も競争、経済も競争。資本家と労働者の立場が入れ替われば革命であり、男性と女性の立場が入れ替わろうとすれば男性はその立場を必死に守ろうとするわけである。戦争も当然そのような所有ゲームの帰結(戦争の場合本当に国民自体が所有されてしまう)である。詳しくはそれぞれの戦争の歴史を紐解いてもらいたい。
そして所有されれば、所有し返す、その繰り返しをしているのが社会であり、それを抑え込めるのか、はたまた抑え込めずに所有されてしまうのか。というのが所有ゲームの原動力となってる。この所有し返したいとう欲求こそが「ルサンチマン」である。
「ルサンチマン」は必ず所有された対象に向かうわけではなく別の対象に向かう。例えばA→BとAがBを所有した場合、BがAを所有し返そうとする場合もあるがBはB→Cという形でCを所有しようとするという形で所有の欲求が働く。これが「ルサンチマン」であり、社会の原動力となっている。
例えば「中学校で勉強ができない子Bがゲームセンターに行く」という例では他の生徒Aに勉強で敗北する(所有される)ことによって所有したいという欲求が沸き、ゲームセンターでCに対して勝利に向かうという形になる。これが達成できない場合、カツアゲや暴力などの違う形で所有が果たされる場合もある。
もう少し大きな話を言えば、資本家の支配(所有する)に対する労働者(所有される)のルサンチマンが革命という形で労働者を支配する側(立場が逆転しただけで何も変わらなかった)に逆転させたのが国家資本主義国(ソ連や中国)であるが、それを抑え込もうとするのがアメリカであったというのが冷戦という構造であると言える。(今も続いている)
誰が真の所有者か
しかしこの所有ゲームの真の所有者はだれであろうか?
私の個人的な例で話そう。
受験戦争で勝利した(所有する)になった私は、大学で勉強やスポーツで負け(所有される)。しかし、なぜ私は受験で所有する側を目指したのか?
それは母が私を管理、教育(所有する)したから。しかしなぜ母は管理、教育をせざるを得なかったのか。
それは父が母を専業主婦(女)として家に閉じ込めたから(所有する)から。なぜ父は母を専業主婦として閉じ込めたのか?
それは父が企業内部で競争にさらされ、勝つため(所有する)に必要だったから。
なぜ企業は父を競争させたのか、それは企業が他企業に勝つため(所有する)
他企業との競争は何をもたらすのか、それは日本の発展(主に納税)つまり、企業は国が所有している。
なぜ日本は発展しなければいけないのか、それは第2次大戦の敗戦(所有される)から立ち上がって勝利するため(所有する)、主にアメリカに。ルサンチマンである。
アメリカは一体、何のために所有するのか?資本主義とは一体?
マックス・ヴェーバーによれば禁断資本主義の精神的支柱とは、カルヴァニズムと世俗内禁欲主義
つまり「神のためにあなたがたが労働し、富裕になることはよいことなのだ」の実践である。つまり、なぜ勝利するのか(所有する)、神のためである。
つまり我々は神、この神とはヤハウェの神である。キリストが復活した際に「主は彼を護りてその生命を保たん」(詩篇41: 2、聖詠40: 3)の「主」だ。ヘブライ人に十戒を与えたあのヤハウェの神だ。そしてアッラーでもある。
なるほど、この神こそが人を「所有する」ことへとかきたてる存在なのか、などと考えてはいけない。もう少し踏み込んで考えてみよう。
なぜヘブライ人はヤハウェの神を創造する必要があったのか。それはエジプト人に支配(所有する)されていたからだ。ルサンチマンである。だからユダヤ人を憎んでもいけないし迫害(所有する)してもいけない。代わりにユダヤ人は所有することをやめなくてはいけない。それが平和へのカギである。
エジプト人はなぜヘブライ人を奴隷にしたのか・・・などと考え続けるとこれは人類がなぜ人を支配し続けたのかという永遠の問題になるが、おそらく原点は
人が生まれた後に人に育てられた(所有された)ことによるものだと考えられる。つまり人が生きていく限り所有するという欲求はほとんど本能的なもの(本能では無い)と考えられる。実際に1歳後半や2歳児などの行動を観察するともうすでにモノを所有する欲求があることが観察できるし(ライナスの毛布)、特に母への執着があることが分かる。母に育てられる(所有される)ことが母を所有することへの欲求へとつながっていると考えられる。エビデンスは無い。脳科学へ任せたい。
であれば所有ゲームは必然か?答えはNOである。我々は人間である。親熊に育てられ、そしてモノに執着するようになった羆と同様な動物では無いのである。
脱所有ゲームと新しい社会の構築
現在世界及び社会の所有ゲームを動かしているのは神だといったが、実際には信仰はすたれてしまったし、また革命によって成り代わったのが国家資本主義であった。つまり実際に今所有ゲームを動かしているのは国家である。なのでこの所有ゲームを解体させるのに必要なのは2つ、国家の解体と神の解体である。つまり無政府主義と無神論だ。
無神論、ただし、多神教のような対等な神、所有しない神、アイヌにとってのカムイのような存在はそれほど問題ではない。問題なのは父として君臨する一神教の神だ。これを解体する。方法としては、まさに無神論者となるか、先ほどの多神教者として生きるかの2択である。
次に国家の解体である、国家を解体して本当に存続可能な社会が作れるのか?と疑問に思う方もおられるだろうが、今現在の社会が当たり前すぎて想像できないだけで作れるとだけ言っておきたいと思う。ヒントは無政府組合主義(アナルコ・サンディカリズム)つまり、個人の連帯で連合をつくり、連合が連帯して大きな連合ができる(所有ではない対等な関係である)。それによって社会や世界が構成されていき、諸問題を解決していくという「生き方」である。ただし、これはおそらく日本だけで行われてもすぐにアメリカの介入によってすぐに資本主義社会に戻されてしまうか、中国の介入が入って戦場になるだけだろう。必要なのはアメリカ、ロシア、中国、EUなどの大国、そしてそれらに付随している国家たちが無政府化していくということが必要なのである。なのでそのような運動はまず大国で行われるべきだと考えられる。
無政府組合主義に関してはこれを読んだ人が詳しく勉強してみてほしい。
所有の哲学の応用 うつ病
うつ病の原因(ストレスの原因)
1 自己の所有から他者が離れていくこと
男にとっての離婚、部下が言うことを聞かない、子どもの独立、男にとっての妻(母親)との死別、大切にしていたものを勝手に捨てられる、夫にとっての妻をコントロールできないこと、教師にとって生徒の言うことを聞かせられない、会社からの解雇・・・etc
2 他者に自己が所有されること
いじめ、理不尽なクレーム、厳しい上司、お受験ママ、家庭の中で妻のほうが立場が上な夫、年下に馬鹿にされる中年、家父長制において女性にとっての結婚、家父長制において女性にとっての性行為、健康診断に行くこと(医者に自分を管理されること)・・・etc
これらは複合して起きる。例えば教師にとっては現場で生徒の言うことを聞かせられない(自己の所有から他者が離れていく)ということと、保護者からああしてほしいこうしてほしいというクレームが入る(他者に自己が所有される)ということが同時に起きるためストレスが大きくなる。
うつ病になりやすい人の類型
ここで強調しておきたいのだが、本当は類型など無い。所有したいという欲求が強ければ強いほどうつ病になりやすいというだけの話である。なぜ所有したいという欲求がつよいのかということを考えればいいだけの話である。
1 ルサンチマン型
幼少期にいじめ、あるいは厳しい母、父などにやり込められた経験があることから、所有しなければならない、例としては勝たなければならない、完璧にこなさなければならないなどのMUST思考へと変化してしまったタイプである。つまりルサンチマンから所有したいという欲求があまりに強すぎてMUSTになってしまったタイプである。
2 もたざる者型
幼少期から、何一つ成功体験が無いタイプ。つまり所有の経験がないために、何かを所有したいという欲求に強く駆られるタイプである。成功体験がないために自分が馬鹿にされているのではというルサンチマンを創造してしまう場合さえある。上記と同じようにその所有したいという欲求は、所有しなければならないというMUST思考へと変化してしまう。
最後に
今回はうつ病を例に所有の哲学を応用して見せたが、様々な学問に対して応用できると考えている。
私は今回のこのレポートの著作権は放棄したいと考えている。アイデアの一つとして参考にしてもらえればと思う。ただし使うからには正しく理解してほしい。それなりの読解力が必要なので、読解力の無い学生が読みもしないでコピー&ペーストするのは勘弁してほしい、その時は指導教官は正しくしかってもらって構わない。
かなり読みやすく文章を作ったつもりではあるので、幅広い人に読んでほしいと思うが、ネットに公開したのもあるのでぜひ学識のある人まで届いてほしいと思う。だが現在の日本の学問の状況は悲しいもので老人の学者たちは碌にインターネットさえ使えない状況ではないだろうか、そのような状況で新しい学問など生まれるはずがないのである。だからこの文章は今まさに学習している若い学生に読まれミームとしてレポートに紛れ込ませるという形で使われると面白いと思っている。革命の遺伝子である。
所有の哲学のゴールは平和、平等、自由である。その実現まで学問の中に確実に、そしてひっそりと潜んでいけることを願っている。
2018年12月14日 k西
ゲーセンに導かれた訳。そして燃えプロへ
2001年春。僕は慶應義塾大学へ入学。勉強で、僕は人生の勝利者になった。はずだった。だが実際には大学の中には僕より優秀な人は沢山いて、剣道のサークルに入っても僕よりも強い人が多かった。僕は大学の中で一気に敗北者になってしまった。
僕は大学に行く気にはなれず、向かった先はゲームセンター。勝利の矛先を勉強や武道ではなく、ゲームに向けたわけだ。バイト代をゲームにつぎ込みただ勝利のために戦い続けた。だが大学生活が軌道にのり、僕がサークルの代表をやり、ゼミに入るようになるころには自然とゲームセンターからは足が遠のいてしまった。そういうものなのだろう。
2007年。大学院を卒業した僕は。学習塾に就職。2年目に役職。3年目室長補佐。6年目には最年少の室長として社長表彰。
会社の中で勝利者だった僕にはゲームセンターは必要なかった。
2012年うつ病発症。休職、彼女もいなくなる、治療で貯金は無くなる。全てを失う。僕はまた敗北者になったんだ。
だから僕はまた、ゲームセンターに向かったんだ。勝利者になるために。勝利しなければ。僕には何もない。勝つしかない。強くなるしかないんだ。勝たなければ、生きている意味が無いんだ。
全ての人では無いと思うけど。ゲーセンで勝利を求める人は大小の敗北を味わい、そして何かを失っているんじゃないかと思う。学校や会社や社会で敗北を味わい、その代わりにゲームで勝利を得るためにゲーセンに来ているんだと思う。だからゲーセンのゲーマーの勝利には命が懸かっている。負ければ存在意義が揺らいでしまうんだから。e-Sportsのプロゲーマーなんて精々仕事がなくなるだけだ、その存在意義が揺らぐわけじゃない、だから違和感があるんだ。地獄で蜘蛛の糸をつかむような、そんな気持ちで僕らはゲームをやっている。
でも僕は甘かった、そんな世界なんだから僕なんかが簡単に勝利者になれるはずがない。数年の練習じゃ、勝てるわけがない。だから僕はどんどん追い込まれる。このままではまた僕は敗北者だ・・・。気付くと僕のうつの症状はひどくなって外に出られないほどになっていた。
当時パニック障害を起こしていた僕は電車にもろくに乗れなかったのだが、少しずつ外出のトレーニングをして外出できる距離を伸ばしていた。ふと高田馬場ゲーセンミカドにあった「燃えろ!!プロ野球ホームラン競争」のことを思い出して、思い切ってミカドまで外出してみることにした。なぜならまだ1回もカンスト(5連続ホームラン)ができてなかったからだ。
平日の昼にミカドについた僕はまず1000円を両替して「燃えプロ!!」の前に座る。お気に入りはSチームのカスシケだ。当然カンストできない。両替機と燃えプロの筐体の前を往復する。3回ほど往復したところで初めてのカンスト・・・。感動した。こんなに嬉しかったことは人生であまりなかった。敗北者だった僕が久々に勝利者になったんだ・・・。と思った。でもこの燃えプロそんなに甘くない。1回できたらもう1回できるだろうと思ってもう一度やると・・・できない。何往復しただろうか、できない。また何往復かすると、できる!うれしい!また往復する、できない・・・。
そんなこんなで1日に14000円ほどをぶち込んでその日は帰宅することにする。
いつしか僕は燃えプロにドはまりして全キャラカンストなどをやってみせるんだけど、ある時気付いたんです。このゲーム、勝利者になれない。絶対に打てるという保証が全然無いからだ。でも敗北者にもならない。打てないとも限らないからだ。これは僕がずっと勉強やスポーツやそして格ゲーで勝利ばかり目指していて、そして苦しんでうつ病になってしまったことからすると大発見だった。勝利者にもならないし、敗北者にもならない。そこにゲームの面白さがある。醍醐味がある。ゲームだけじゃない。人生だって勝利者にも敗北者にもならない生き方がある。そんなことを燃えプロは、ミカドは教えてくれた。
そこから人生は一変する、僕の考え方はがらりと変わり、急に体調は良くなり始める。生き方が変わったんだ。
もし、勝つことだけを信じて苦しんでいる人がいれば、この文章が一助となればと思います。
