k西ろぐ

ゲーセン通いの日々、うつ病との付き合い、教育、そして酒と漫画とetc

2012年6月

2012年6月。

 僕はもう2日も眠れていなくて、頭が大分混乱していた、机には退職願と家族へのお別れを書いてその日は出勤した、形だけ。

 JR藤沢駅のホームの最後尾に佇んで、ただやってくる列車を待つだけだった。なぜ最後尾か?最後尾なら速度が一番速いからだ、そんなことだけ合理的なのを今では自嘲気味に思い出す。藤沢駅は非常に開けていて、次にやってくる列車が遠くに見える、そう次にやってくるあの列車、あの列車がやってくれば楽になれる。そう思っていた。

 ふと振り返るとなぜか「沼津行き」の列車が止まっている。「沼津行き」?どうしてそんなに遠くまで?(今思えば沼津行きなど普通に走っている列車だ。)多分単純に「死」から逃げた、多分それだけのことなんだけど、ただその時は遠くに行ける、ただただ遠くに行きたかった、どこまでも遠くに、行けるところまで。

 だらしない・・・僕は死ぬこともできずに、逃げるだけ。一番格好悪い。だから僕はとにかく遠くへいかなくちゃいけなかった、遠くへ行って消える、その時考えることができたのはそれだけだった。

 今思うと人間、習慣は消えない、好奇心は消えない、行ったところが無いところに行けば降りたくなる、きっと少し落ち着いてきたのか、静岡が長すぎたのかもしれない、清水でタバコを吸って、また電車に乗った。中京の電車は面白い、関東の電車とはいろいろ仕組みが違う、そんなことも考えていた。

 名古屋まで各駅停車で行ったのはある意味正解だった、僕を落ち着かせるだけの時間は十分にあった、途中で酒を飲まなかったことも正解だったかもしれない。運が良かった。

 

 生きるということは、ある意味で、だらしないこと、カッコ悪いこと、逃げること、降りることかもしれない、特に「高潔に」生きることを選択し続けた人間にとってはこのような生き方はまるで死んでいるように見えるかもしれない。だとしたら、「死んだように生きる」というのもまた、生きる一つの選択肢じゃないだろうか。

 

 だってそうじゃなかったら、僕のこの7年間は無かったんだから。